阪堺電鉄陸橋について
今回は、新阪堺線の起点である阪堺電鉄陸橋及びその架橋により生じた支障について述べます。
阪堺電鉄陸橋といえば、JR芦原橋駅の駅舎出口付近にある陸橋やな。
目次
阪堺電鉄陸橋について
概要
阪堺電鉄陸橋は2025年現在において、府道29号線に架かるJR大阪環状線の陸橋であり、図1にあるとおり、JR大阪環状線の芦原橋駅北西側にあります。この阪堺電鉄陸橋は下路式複線式バラストフロア式の橋梁(写真1)であり、主桁の下部に線路面のある、主桁に複線のバラスト軌道を敷いたものです。
下路式の橋梁は桁下に余裕がないときに使うもんやな。跨線橋にはよう用いられてとるで。
写真2は2025年(令和7年)に府道29号線上で阪堺電鉄陸橋南側から撮影したものです。一方、図2は1927年(昭和2年)に申請された、新阪堺電車社長発、鉄道・内務両大臣宛、発第196号【1927年(昭和2年)3月22日付】『軌道線路及工事方法一部變更並ニ工事施行認可申請書』に添付されていた「臨港鐵道交叉關係圖」を当方で加工したものです。
何か、今の写真と図が違っているように見えるんやけど。
図2には今の車道部分しかないみたいじゃね。
図2の正面図には併用軌道を含めた道路の幅員は66フィート0インチ(20.117m)が示されており、2025年現在の府道29号線のうち、車道部分の幅員がほぼ同じとなっています。
また、阪堺電鉄陸橋が架橋された時には、現在の車道部分にあたる箇所のみが建設され、歩道部分にあたる箇所は「阪堺電鉄架道橋りょう」として、1960年(昭和35年)11月から1961年(昭和36年)3月の間に佐藤工業株式会社により新たに工事されています。写真3でもわかるように、1942年(昭和17年)の道路幅と1970年代の道路幅を比較すると、1970年代のほうが幅員が広く、現在の府道29号線は拡幅されていることがわかります。
更に、写真4の歩道部分にあたる阪堺電鉄架道橋りょうには銘板(写真4は斜め下から撮影した写真をClip Studio Paintで変形加工したもの)があり、その下の2行に施工:佐藤工業KK 梅木正二、工期:1960-11~1961-3と刻まれています。なお、文献には佐藤工業株式会社が施工した土木工事の一つとして「大阪環状線大正駅・芦原橋駅間阪堺電鉄架道橋改築工事」が記録されており、工期:1960年(昭和35年)9月~1961年(昭和36年)5月、発注者:日本国有鉄道大阪工事局となっています1。
なるほど、今の車道部分は新阪堺線敷設時に作られたけど、歩道部分は1960年から61年の改築工事のときにそれぞれ作られたんですね。
1960年から1961年までやと、ちょうど大阪環状線が形成された頃やな。
大阪環状線工事のうち、西九条駅~今宮駅間の複線・電化工事を含む第1期工事は1956年(昭和31年)3月に着工され、第1期の暫定設備による開業2については、1961年(昭和36年)4月25日となりました3。
「阪堺電鉄架道橋りょう」は上記の工事の一つとして行われたものと思われます。
前にも言うたけど、大阪臨港線は今の大阪環状線の一部で、
今宮駅~大阪港駅間の単線非電化の貨物線やで。詳しいことはわたしが別に説明するわ。
阪堺電鉄陸橋の施工について
では、大正から昭和にかけて行われた阪堺電鉄陸橋の施工について、もう少し詳しく教えて下さい。
鉄道省と新阪堺電車の契約
この阪堺電鉄陸橋を架設するにあたり、新阪堺電車と鉄道省神戸改良事務所との間に跨線橋架設契約が1926年(大正15年)4月28日付で締結されました。その契約書の詳細については不明ですが、前述した発第196号によると、要点は以下の通りです。
- 設計・施工は鉄道省が行う。
- 建設費は新阪堺電車が負担する。
【発第196号の内容4】
❝該交叉箇所ノ鐵道跨線橋ハ弊社【註:新阪堺電車のこと】ノ負擔ニ依リ大正拾五年四月廿八日當時ノ所轄廳神戶改良事務所長ト契約ヲ締結シ目下大阪改良事務所ニ於テ工事施行中❞との記述があります。
また、1927年(昭和2年)4月6日には、新阪堺電車社長が発信した発第195号【同年3月18日付】に対する返信が鉄道省・大阪改良事務所長より発せられ、❝右交叉部分ノ跨線橋架設契約締結シタルコトヲ證明ス❞として、阪堺電鉄陸橋架設に関する契約を締結していることを証明する文書も確認されています5。
つまり、当該交差箇所の鉄道跨線橋、つまり「阪堺電鉄陸橋」は新阪堺電車の負担により、1926年(大正15年)4月28日に当時の所轄官庁である鉄道省・神戸改良事務所と契約を締結し、その後、同省・大阪改良事務所が工事施行しているところだと述べているんですね。
陸橋の名前は、単に新阪堺電車の上を通るからだけやなく、新阪堺電車が費用負担したから、名付けられたんかなぁ。城東線の京阪電鉄乗越橋みたいに。
阪堺電鉄陸橋の施工
新阪堺電車と鉄道省神戸改良事務所との契約締結後、阪堺電鉄陸橋架設を含む「今宮鼬川間土工其他工事」が1926年(大正15年)4月29日に着工され、1927年(昭和2年)11月3日に竣工し、森本組の森本千吉氏により実施されています6。なお、森本組の森本千吉氏は株式会社森本組の創業者です7。
大阪臨港線の今宮鼬川間土工工事其他工事が始まったのが、契約締結後の翌日なんじゃね。
なお、認可された後、修正され、歩道が追加整備されました。当該申請の認可<鉄道・内務両大臣発、新阪堺電車宛、監第2148号『阪堺電鐵線路及工事方法變更ノ件』【1927年(昭和2年)8月13日付】>で認可した際、内務省土木局より陸橋下に歩道を作ることを<鉄道省監督局長・内務省土木局長発、監軌第1554号1『通牒』【1927年(昭和2年)8月13日付】>で指示されていたことによります8。
図2の赤い線の部分、つまり、今の車道部分の端に歩道を作ったんですね。
阪堺電鉄陸橋による支障について
支障の概要
新阪堺線を敷設するうえで、何が支障になったんかいね。
新阪堺電車は元々、大阪市電・西道頓堀天王寺線に接続し、乗り入れることを考えていました。『港南電車軌道ノ概要』には❝我港南電車線路ノ軌間ハ總テ四呎八吋二分ノ一ニシテ市營電車ノソレト全ク同一ノ形体ヲ有シ殊ニ市內ニ屬スル線路ニ對シテハ將來市營電車モ之レニ乘入レ共用シテ相互ノ便益ヲ關ルベキ交涉アル9❞とあり、芦原橋が❝將來ニ堂島大橋ヨリ福島中二丁目マテ延長シ梅田ヨリ直通ノ電車運轉セラル丶ニ至ルヲ以テ市營電車トノ連絡ヲ關ル上ニ於テ最モ好適ノ地点タル10❞として、大阪市電の乗り入れと福島・梅田方面への直通運転を企図し、その接続点として芦原橋が選ばれ、軌間を1435mmとし、大阪市電と同じ形体の路面電車としていることがわかります。
そうやなぁ。大阪市電と同じ標準軌で直流600Vにしとるのはそのためやろうからなぁ。
以前の記事で述べた新阪堺電車・取締役支配人発の追申において、大阪臨港線の敷設とその立体交差問題についての要点として、次の4つを挙げています。
- 大阪臨港線が新阪堺線と大阪市電・西道頓堀天王寺線の間を通ること。
- 阪堺電鉄陸橋の桁下が低くなっており、桁下を上げることができないこと(鉄道省による)。
- 鼬川に架かる「芦原橋」(「芦原橋」は大阪市電・西道頓堀天王寺線が敷設されている。)と新阪堺線起点との高低差が大きいこと。
- 「芦原橋」と阪堺電鉄陸橋間に33.3‰の大きな傾斜が生じていること。そのため、新阪堺線との接続線に急峻な坂道が生じること。
以下では、もう少し詳しく述べていきます。
阪堺電鉄陸橋の桁下の高さについて
要点1及び2については、路面電車が阪堺電鉄陸橋の下を通過するには桁下の高さが低く、しかも橋桁を上げることもできないので、軌道面を低くしない限り、改善されないことが問題となっています。
電車の高さからすると、十分な気もするけど。
MIYABI、電車の架線のことも考えなあかんで。
1927年(昭和2年)8月9日付、新阪堺電車・取締役支配人発の追伸11には新阪堺電車が大阪市電気局と協議していることが記述され、❝十五呎以上ノ高サトナルベキ❞と大阪市電との接続のためには、阪堺電鉄陸橋の桁下の高さが15フィート(4.572m)必要と示してますが、阪堺電鉄陸橋の桁下の高さは、前述の新阪堺電車の申請書(発第196号)では13フィート6インチ(4.115m)12となっており、このため❝起點附近臨港鐵道跨線橋桁下路面間ノ高サハ普通電車運轉上過少ニ過グルモ❞とあり、架線で集電する電車の運転には阪堺電鉄陸橋の桁下の高さは低すぎることが示されています。しかも、前述したとおり、❝鐵道省ニ於テ桁高ヲ是レ以上上グル事モ出來得ズ❞とあり、鉄道省は阪堺電鉄陸橋の桁下を上げられないことを示しています。
それなら、新阪堺線の軌道面を下げたらええんじゃないの?
そうすると、急勾配という別の問題が発生するため、それもできませんでした。
鼬川に架かる「芦原橋」との高低差について
芦原橋駅北交差点と芦原橋駅交差点の間に、かつては鼬川が流れており、その鼬川を越える橋が「芦原橋」でした。
へぇ~、「芦原橋」という橋が本当にあったんや。
鼬川は四天王寺建立の際に開削されたという伝承がある川で、「芦原橋」は大阪市電が開通したとき、架橋されたよ。写真5はその時の芦原橋の親柱の1つだね。
図3は(A)の図をもとに主として、海抜と距離に関する情報を抽出し、(B)、(C)及び(D)の図の海抜と距離に関する情報を追記したものになります。
(A)新阪堺電車社長発、鉄道・内務両大臣宛、発第196号【1927年(昭和2年)3月22日付】添付の阪堺電鉄株式会社線路実測平面図①(実測平面図第1号図)
(B)大阪市長発、鉄道・内務両大臣宛、電運電甲第326号【1934年(昭和9年)4月4日付】添付の西道頓堀天王寺線一部縦断面図
(C)新阪堺電車社長発、鉄道・内務両大臣宛、発第196号【1927年(昭和2年)3月22日付】添付の阪堺電鉄株式会社線路実測縦断面図①(実測縦断面図第1号図)
(D)新阪堺電車社長発、鉄道・内務両大臣宛、発第213号【1927年(昭和2年)6月25日付】添付の阪堺電鉄株式会社線路実測平面図①(実測平面図第1号図)
【参照文献は図3中に明示】
図3では、「芦原橋」(①)の場所は周囲と比べると、高い場所(海抜O.P.+4.674m)にあり、新阪堺電車の芦原橋停留場の海抜がO.P.+2.576mに対し、約2.1m高い場所にありました。
O.P.って何?かなり高低差があるようじゃけど、どれくらいの坂道になっとるの?
まず、O.P.とは大阪湾最小潮位と言い、大阪湾の干潮時の海面からの高さを示しています。
図4は図3の①~⑥・新阪堺線を西道頓堀通三丁目からの距離と海抜との関係を図示したものです。前述した新阪堺電車・取締役支配人の追伸13の表現を借りると、❝市電ハ現在芦原橋ノ高サニ制セラレ❞とあるように、大阪市電・西道頓堀天王寺線は「芦原橋」のために高い場所にあることがわかります。この接続を考慮して、❝本社線路ハ之レガ取扱上三十分ノ一ノ急勾配ニシテ❞とあり、新阪堺線には起点から阪堺電鉄陸橋の南側まで、33.3‰~35.4‰の勾配を設けていました。(1/30の勾配は33.3‰の勾配)
それでも、大阪市電・西道頓堀天王寺線と新阪堺線・起点との間(③と④の間)には66.7‰の勾配が生じています。
66.7‰!! 碓氷峠並やん。それは電車じゃかなり難しいな。
それって、かなりの急勾配なの?
では66.7‰の坂の実例を次に示します。都電荒川線の王子駅前から飛鳥山にかけての坂です。
うわっ!かなりの急勾配じゃねぇ~。
都電荒川線の王子駅前から飛鳥山までにある坂が66.7‰であり、この勾配と同じ坂が大阪市電・西道頓堀天王寺線と新阪堺線の間に存在していました。都電荒川線の場合、この坂の距離が長いため、坂の上では王子駅前でその下をくぐったJR京浜東北線の高架橋より高い場所まで上がりますが、大阪市電との接続点と阪堺電鉄陸橋の場合、写真6でいうと、軽トラックが止まっている場所までの距離となります。(正確に言うと、すべて66.7‰ではないので、少し高さが低くなります。)
阪堺電鉄陸橋の桁下の高さを確保するために、新阪堺線の軌道面を下げると、坂の勾配も更に大きくなり、電車の運行が更に困難になります。
でも、都電荒川線も路面電車でしょ。新阪堺電車も可能なんじゃないの。
TOMO姉、新阪堺電車はダブルポールで集電しとったから、登っとるときにトロリーポールが外れると、えらいことになるで。
トロリーポールは集電装置の一種で、ビューゲルやパンタグラフのように追随性は良くなく、架線から外れやすいことが欠点です。新阪堺電車は架空複線式、すなわち2本の架線を用いていたため、2本1組のトロリーポールを用いていました。
そのため、トロリーポールが架線から外れたとき、架線に戻す作業が難しいと思われます。なお、登っているときに架線が外れ、元に戻せなかった場合、坂の下に逆走することになります。
再び、前述した追伸14の表現を借りると、新阪堺電車は大阪市電気局との協議で、❝市電ガ十二間以上ニ取擴メノ際(現在九間巾)芦原橋切下ゲト相俟テ十五呎以上ノ高サトナルベキ市電當局ト協議ノ上ナシタル止ムヲ得ザルモノ❞として、将来、大阪市電が通っている道路を9間から12間に拡幅するときに「芦原橋」を切り下げると同時に、桁下を15フィート(4.572m)以上の高さにすることとし、現状は❝止ムヲ得ザルモノ❞として、大阪市電との接続はせずに、図2のような立体交差としました。
なお、❝本社起點停留所ハ該部分ヲ離レタル箇所ニ停留所ヲ設置スベキニヨリ常時運轉ニハ少シモ支障ナキモノ❞として、新阪堺電車の芦原橋停留所は立体交差部分より離れた南側に設置し、常時運転に支障ないようにしました。このため、実測換算中心粁程での芦原橋停留所の距離は47mとなっています。
まとめ
阪堺電鉄とその支障にかんすることをまとめると以下のとおりです。
- 阪堺電鉄陸橋は大阪臨港線が敷設されたときに、現在の車道部分にあたる部分が作られたこと。
- その大阪臨港線が大阪環状線の一部として活用された時に、歩道部分が作られたことにより、現在の姿になったこと。
- 阪堺電鉄陸橋により、新阪堺線が大阪市電と接続することができなくなったこと。
- 理由1 阪堺電鉄陸橋の桁下の高さが電車が通るには低いこと。
- 理由2 「芦原橋」と新阪堺線の高低差が大きく、その間に急峻な坂道が存在したこと。
そうやけど、大阪市に買収されたあと、桜川二丁目からの大阪市電が来てたから、ここで大阪市電と繋がったんやろ。そのとき、どうやって繋がったん?
新阪堺線開通以後の阪堺電鉄陸橋については、別の記事で述べていきます。
えっ!次回に続くんか~い!
興味のある方は読みんさいね。
参考文献
- 佐藤工業110年史編纂委員会 編,『110年のあゆみ』,佐藤工業株式会社,ダイヤモンド社 ,1972年,436p,国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11954692 (参照 2025-09-30) ↩︎
- 鉄道電化協会 編,『電気鉄道 = Electric railways』15(5)(156),鉄道電化協会,1961年,5504p,国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2313892 (参照 2025-10-01)を参照した。 ↩︎
- 西日本旅客鉄道株式会社,NEWS RELEASE(2021年5月11日),西日本旅客鉄道株式会社,2021年,別紙1を参照した。 ↩︎
- 国立公文書館所蔵,『鉄道省文書』・軌道特許・阪堺電鉄・第1巻(大正11年~昭和2年)を参照した。 ↩︎
- 国立公文書館所蔵,『鉄道省文書』・軌道特許・阪堺電鉄・第1巻(大正11年~昭和2年)を参照した。 ↩︎
- 鉄道省大阪改良事務所 編,『大阪臨港線新設工事概要』,小林写真製版所,1928年,10pを参照した。 ↩︎
- 森本組百年史編集委員会 編纂,『森本組百年史』,株式会社森本組,1992年,4p及び35-36p,国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13098679 (参照 2025-10-01)を参照した。 ↩︎
- 国立公文書館所蔵,『鉄道省文書』・軌道特許・阪堺電鉄・第1巻(大正11年~昭和2年)を参照した。 ↩︎
- 千島土地株式会社編,『千島土地株式会社設立100周年記念誌』,千島土地株式会社,2012年,63pより引用した。 ↩︎
- 千島土地株式会社編,『千島土地株式会社設立100周年記念誌』,千島土地株式会社,2012年,63pより引用した。 ↩︎
- 国立公文書館所蔵,『鉄道省文書』・軌道特許・阪堺電鉄・第1巻(大正11年~昭和2年)を参照した。 ↩︎
- 国立公文書館所蔵,『鉄道省文書』・軌道特許・阪堺電鉄・第1巻(大正11年~昭和2年)を参照した。 ↩︎
- 国立公文書館所蔵,『鉄道省文書』・軌道特許・阪堺電鉄・第1巻(大正11年~昭和2年)を参照した。 ↩︎
- 国立公文書館所蔵,『鉄道省文書』・軌道特許・阪堺電鉄・第1巻(大正11年~昭和2年)を参照した。 ↩︎











